top of page
アンカー4

​満福寺の縁起と歴史

満福寺の鐘楼門.JPG

 満福寺は、もともと神官寺の格式をもち山岳密教の祈祷道場として、日登へ鎮守したことから日登山と称し、奈良時代の天平17年(745年)に行基菩薩によって室山大寺院の一寺として創設されたと伝えられています。

 かつては現在地より800mほど坂道を登った今の健康の森付近に12坊を有する大伽藍を配していたと言われています。もともと宇山の室山寺院の祈祷道場であって、戦国期末期毛利氏の祈祷寺として僧兵を抱えており、200石(約25km)の領地を有していたと伝えられています。 

 永禄12年(1569年)頃には、度重なる毛利と尼子の戦いで兵火にかかり大半を消失しました。そして30年後の慶長6年(1601年)に快香上人によって現在地へ復興されたこが、寺社台帳に記録されています。

 

 御本尊の千手千眼観世音菩薩は、大僧正行基の作と伝えられ、像高1m75cm、台座と光背を含めると2m60cmにもなります。千手千眼観世音菩薩は、秘仏で常時厨子に納められていており、33年ごとに御開帳されます。また、両脇には像高1mの日光、月光菩薩が配置されています。

​ 毎年、千手千眼観世音菩薩のご縁日である四月十七日には、「大般若法会」がとり行われます。当日は、近隣の僧侶による大般若経六百巻の転読が行われます。また、住職により家門繁栄、息災延命、招福長寿の護摩祈願法要がとり行われます。

​出雲札所観音霊場記から みた縁起は⇓⇓こちらをご覧ください

歴史の中の主役
『吉成と於長』

​よしなり   おちょう

​満福寺外伝

​~すね取り地蔵さん~

 江戸時代の中期ころ、他国で不義密通をとがめられ、逃避旅の若き男女が、人目を避けるようにして満福寺を訪れました。吉成と於長は、老住職に「巡礼の旅をしていても心が休まる時がない」と話すと、「添い遂げるには、この地を安住の地として、住家にせよ」と勧められ、それ以来、二人は寺参りを続けるかたわら、吉成は紙漉きに精を出し、於長は葉たばこ栽培を村人に奨励しました。

 やがて吉成の漉いた紙が松江藩の目にとまり、藩御用達の品として木次の紙市に出されるようになりました。

 二人が相次いで亡くなり、村人は「紙と葉たばこの名声を高めた功績者」として、寺の境内に吉成の地蔵を、於長の五輪塔を建立しました。

​ これらの由来により若い男女はもとより結婚前の親子まで、諸願成就の仏として信仰され、いつの頃からか地元では「すね取り地蔵さん」や「よしなり地蔵さん」と呼ぶようになりました(〝すね"とは、皮膚病の一種でイボのようなもの)。この地蔵にお詣りするには、最初に願掛けとしてたばこ一箱をお供えし、地蔵前の灰を患部にこすりつける。そして、願いが成就すればお礼に更にたばこ一箱をお供えする。この地蔵が皮膚病やすね落としに効くのは吉成が於長と相添えたいの願いが成就したことにより姿を地蔵にまでも変えて二人の慈悲心を万民に施す表れと思われ、今でも変わらぬご利益は懇々と息づいています。  (満福寺伝より)

スネ取り地蔵.JPG
寺院の夕日
​古老の伝

「ワシ(自分)が、子どもの頃だが、シネ(イボのような出来物)が出て、ババ(祖母)さんに連れらて参ったわ(お参りした)。シネんとこ(患部)を直に、ヨシナァ(吉成)さんの石の部分に擦りつけて早い事治してがっしゃい(早く治してください)と頼んだことを覚えとーわ(覚えている)。知らんなまに治ったけんのぉ(知らぬ間に治った)。あの頃は子どもだけんのぉ、何も思わんかったが、ありゃぁ今でも不思議なことだわ」。「参ったし(お参りの人)が、供えてあったタバコを吸ってのぉ、その灰を入れもん(器)に移しておったじ(あったよ)、次に参ったし(お参りされた人)が、灰をシネが出たとこに付けて治ったげな(治ったらしい)」。「そー(それ)とタバコの灰をカン袋(紙袋)に入れて帰ったし(帰られた人)もおらいたげなが、だー(誰)も難儀したもんだわな(苦しんだ)、そーだども(だけど)偉いもんだわ、なおったけん(治る)のぉ ハッハッハッ」・・・

古老が幼少期(昭和初期の頃)を回想して話された言葉を原文(方言なまり説明)のまま参考までに記載しています。

​補  足

吉成は、伊予の国(愛媛県)、讃岐の国(香川県)で紙漉き職人、於長は商家の嫁だったと記述がありあります。

愛媛県川内町(現、東温市)には、「木須木和紙」なる名称が残っているようです。

吉成と於長は、出雲地方が神在月の季節に杵築の大社(出雲大社)を目指し、参拝したと伝えられています。

神門郡日置郷(今の出雲市塩冶町付近)で、偶然見た日の出の美しさに魅せられ、その方角を目指し、斐伊川をさかのぼり着いたところが日登だったのではないか。(西から日が昇る。不思議なご縁を感じざるを得ません)

隣町には、お長畑なる岡畑があり、瑚珪妙珊信女なる戒名の墓もあるようです。

和紙製造の原料となる三椏、楮の栽培、和紙生産は当時から盛んでありましたが、現在は唯一高級手漉き和紙を製造する和紙店があります。

​情報はこちら>>うんなん旅ネット(斐伊川和紙)へ ↓↓
​満福寺異聞

​観音様の夜歩き

千手観音.jpg

 満福寺には、本尊千手千眼観世音菩薩にまつわる摩訶不思議な伝説があります。

寺伝によりますと、開山は天平17年(西暦745年)で、のちに大僧正となる行基によって彫られた千手千眼観世音菩薩が納仏されています。

 

 彫られたとき、その胸に観音経が納められたといいます。そのためか、菩薩様が観音経を布教か、ご加護か定かでないが、夜な夜な出歩かれて困った村人や住職は、一計を案じて不動明王を配置したうえ太い鉄製の鎖で縛り、出歩かれないようにしたといいます。

​このことが、菩薩の怒りに触れたのか、日登、とりわけ西日登では鉄に関わりのある生業は栄えたためしがないと伝えられています。

​補  
満福寺の夕闇

行基は、15歳で出家した和泉(大阪府)の出身。聖武天皇の信任を受け東大寺の大仏制作に関与。745年に我が国最初の大僧正に任じられています。749年天皇・皇后の戒師を務め、82歳で没するまで活躍した高僧です。

​行基像は、兵庫県加古川市の鶴林寺に。行基の墓は奈良県生駒市の竹林寺内にあります。

bottom of page