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満福寺縁起

​出雲札所観音霊場記に記載の満福寺縁起

 抑、当山の由来を尋ねるに、斐川の辺りに酒井某氏というものあり。然るに此人平生千手観音を信仰して、常に先手陀羅尼とその真言を毎日五百ぺんずつ読誦すること怠らず。此の家に一匹の犬を飼うに、此の犬、或る時何地よりともなく土の珠一顆くわえて来るを見るに、中に銭七,八文有り、又くわえ来る時に主人の前に置くを見るに或いは銀、或るいは金有り、中にも金銀は稀にして百に九十九までは銭になりにけり。

 酒井某氏奇怪な想いをなし、彼の犬、何地よりくわえて来るという事を知らず。伺い見せしむるに、その処を知らず。或いは月に朔日、十五日の朝日一丈ばかりも昇る時に必ずくわえて来る。又、三日月の出ずる時、甲子の日などには日の昇り、月出ずる時ばかりに必ずくわえて来る程に、土玉五百余顆に成れり。之、酒井某氏千手観音の真言を念誦し、又は大黒天の像を多く造り、毎年五、六度は僧を請して千手陀羅尼を読誦せしむ。かかる利生も有りけん、犬土玉くわえて来る事その仔細を知らずによって、土玉の中の金銀を以て千手薩埵の小像を鋳なし、銭を集めては日光月光菩薩大黒の像を造り奉るとかや、故に此の家追々富貴にして満足なり。その後堂一宇を建立して、千手観音の尊像を奉るところから日登山と申し候也。

 人王四十五代聖武天皇の御宇天平十七年乙酉の年、天皇に行基大僧正任ぜられし、行基の一行たるや巡錫の砌、偶々当国に至り本院に立ち寄りて千手観音の尊像御長五尺三寸に彫刻なされ、御胸籠に観音経一巻を納め給うなり。仁王の両尊御長六尺七寸までも行基大僧正の御作なり。又、日光、月光の両脇立菩薩の作知れ難きは篤き信心する処の佛土師作なるか。然し彼の日輪の昇り給うに、犬土玉をくわえ来る故に脇立に日光、月光二菩薩御長三尺六寸の立像を安置するや、観音の脇立には先ず稀也。然るに大半は薬師如来の脇立あるが尋常也。酒井某氏の日々月々に富貴満足幸福成る故、家財を擲ち数多堂宇を建立致すとかや此の因縁を以て満福寺と名付け申し候也。

 時移り戦国の世を邀え、永禄九年丙寅の年、毛利の祈願所たるや、段畑地に本堂六間四方にして僧侶も十二坊ありとかや。奥の院に瀧ありて弁財天在すなり、日出ずる処日昇る。日沈む処彼の集落ありと此処彼処から観る朝日、夕日は絶景言語に述べがたし、然るに尼子との勢力争いに伽藍の護持を図らんや十二坊の堂宇や根本塔と大伽藍にして僧兵を抱えており、二百万石の寺領を抛つ程に威厳を誇るべからんや。永禄十二年己巳の年度重なる戦いに寺院の本堂と根本塔、十二坊の堂宇や伽藍の護持する。万策を色々練らんが為に時には尼子に便を図り、或る時は毛利の意に委せ寺院の存続を図らんとかや兵火にかかり危うく戦火を免れし、観音堂、護摩堂、持仏堂、仁王門、鐘楼門とかの堂宇は模様を縮小し、此処より三町降りし戌辰の当たりに吉成、於長や酒井某氏と彼の犬の供養塔や墓所ありとかや。その由来尋ねるに地とか似たる故に爰に定めたり吉成、於長の由来は別に述べ申し候也。 
 

(満福寺住職 第二十六世 小笠原泰就氏訳による)

​ 昭和30年秋、郷土史家伊藤菊之助他5名が、当時の仏像等について総合研究調査を行った結果、本尊千手観音像は室町期の作であり、その後になって漆塗りその他の補修を加えたものであるとの結論を得た。次に掲げる棟札はこれを証するものではなかろうか。

(一)  

(表書)聖衆天中迦陵頻伽聲大守松平出羽守左少将源宗衛公

奉修覆日登山満福寺本堂井本尊荘厳開眼供養

哀愁衆生者我等今敬礼

供養導師金厳山 岩屋寺瑞麟

現 住        阿闍梨 通貨

(裏書) 宝暦十三癸未  三月五日入仏供養了

(二) 

(表書)    大守    松平羽州公

奉造作本尊千手観音  施主邑中

当山寺務 快学法印智浄

(裏書) 弘化四丁末 十二月成就

​                                           (木次町誌より抜粋)

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